去私

 

 

新年明けまして。もうだいぶ経ちましたが。
クリスマスから年末年始にかけてみんな各々行きたい場所に赴いて楽しい時間を過ごしている。のを、SNSの画面を通して薄目で見ていた。
みんな眼前の光景をスマホのカメラを通して記録し、短い感想とともに山のようにアップして、お互いに電子のメッセージを送り合っていた。
きれいな夜景を見た、おいしいご飯を食べた、スキーで雪上を滑った、初日の出を見た、いつもとは違う街並みを歩いた。

そんなにいいものだろうか、と思う。

元々旅行といえば東京か大阪のテーマパーク以外の選択肢が無かった実家の思想を受け継いだのか、はたまた元来の出不精のせいかはわからないが、わざわざ外出して、時には新幹線や飛行機にまで乗って見に行くきれいな景色にそれほど価値を見いだせない。
何をするにつけても「だから何だ」という内心がいつから芽生えたのかはわからないが。
クリスマスやその前夜に人でごった返す都会に出向いてイルミネーションを見て、それを写真に写してSNSにアップして、それで何か嬉しいことがあるだろうか。全部そう。高級料理店に行って、雪山を滑り降りて、高いタワーに登って、花畑で写真を撮って。
「だから何だ」という結論にしかならないのは私の精神が貧しいからだろうか。「思い出を残すんだよ」という言葉にも特に心を動かされない。
必要な買い物や通院以外の外出は全て億劫だし、「遊びに行く」選択肢がすごく狭いように感じる。
「写真を撮る」ことが主体のイベントもかなり苦手だ。成人式や七五三だけでなく。高校最後の部活の試合が終わったあと、卒業式のあとの校庭、そんな記念写真撮影大会にも、なんの意味があるのか疑問に思ってしまう。

でも、テーマパークに遊びに行くのはすごく充実していて楽しいことに思える。家でゲームをすることも、勉強することも本を読むことも好きだし、何時間もインターネットサーフィンに費す日もある。
何が違うのかと問われれば多分答えられない。テーマパークもゲームと勉強も読書も、極論行き着く先は「だから何」だ。事実、そう虚しくなって辞めたこともいくつかある。

恐らく「絶対に必要」以外のものを無駄だと切り捨てる精神があるのかもしれない。必要じゃないものに時間やお金や体力を割くのはもったいない、と。
でも、そうやって切り捨てたあとに残るものは何だろうか。言いきってしまえば生きていることすら無駄にはならないか?どうせ人類史に残るような偉業を成し遂げるわけでもないし。

身の回りのもの、果てはデータに関しても同じような断捨離癖があって、使わないものがいつまでもあるといらいらするし、スマホの写真フォルダはできる限り空にしていたい。(確認したら1枚しかなかった)

うまいこと言い換えればミニマリストとも言えるかもしれない。その最小限が経験にまで及んでいるだけ。
でもその最小限主義が度々ゲームやら読書やら、今ほとんど唯一の趣味と言えるようなことにまで干渉しうるので、いつかはこの合理主義が自分を殺すのだと思う。

μίμησις

 

 

 

献血をしよう、と思って、朝一番の予約を取って早起きして出かけたけれど、献血前の血液検査でひっかかってしまった。ヘモグロビンの値が0.2だけ足りなかったらしい。貧血というほどではないけれど、血液を他の人にあげるためには十分すぎるほど健康である必要がある。残念。これはノブレス・オブリージュの逆流かもしれない。与えるには、持っていなければ。

受付のときお礼品のハンドジェルを2つももらって、所属大学の累計献血数の数字も一つ増やして、温かい飲み物まで頂いてしまったのにそのまま帰る事になった。無念のなか献血ルームを出る私の背に降り注いだ「ありがとうございました」の声は、イヤホンのせいで聞こえないふりをしてしまった。

わたしの中には他人への悪意と、他人の悪意への信頼がありすぎる、と思う。性悪説を採用しているのもそうだし、道行く人は須らくわたしを悪くみているべきだと信じている。お弁当屋さんのアルバイトで少しいやなお客さんにあたる度に、店に来てくれるお客さんみんなへの期待が薄れていく。何かあったらまず他人の故意を疑ってしまうし、嫌いな人に嫌なことがあって傷ついているようでもさして何も思わない。

穴の中を覗いては、きっと見えないだけでなにか潜んでいるに違いない、私に害意を持つなにかがきっと今も笑っているに違いないと決めつけて、いもしない悪意の他者に肩をすくめて立ち去るような生き方をしてきた。

でも、人を喜ばせたい、という気持ちは確かにあるのだ。テーマパークやイベントのスタッフをしているときはお客さんに喜んでもらえるよう頑張るし、それで笑顔になっているのを見ると涙腺が緩むほど嬉しい。仲のいい友人には何でもしてあげたい。欲しがっているものがあったらなんでもない日でもプレゼントしたい。見たいと言っている映画のBlu-Rayを持っていたらすぐ貸してあげたい。なにかあったらいつでも話を聞きたい。「好きな人には尽くすタイプでしょ」と周りに揶揄されることも多い。

あるかどうかもわからない悪意を勝手に決めつけて見もしない他人を嫌うくせに、場合によってはそれが真逆に裏返って奉仕体質になる。

信じたいのかもしれない。テーマパークで遊ぶことを楽しみに来てくれたお客さんや、懐を開いた友人には、ひいては、人には、悪意があってもそれを上回る善意があることを。人に優しくしたい気持ちがあることを。

弁当屋さんのアルバイトでも、最初はもっと接客に対する期待が高かった気がする。敵意をぶつけてくるお客さんに会うたびにがっかりして、次は傷付かないように予防線を貼るようになってしまったのかもしれない。

思えば、そうやって他人に傷つけられてきた過去がわたしには沢山ある。わたしだけでは無いだろうけれど。対人関係において保身に走り続けた結果がわたしの性悪説なのだろうか。

でも、社会で生活を営む以上、わたし以外の人だって当然人との関わり合いで傷ついたことはあるはずで、それなのに他人への無償に近いような優しさを持てる人だって沢山いるので、結局わたしの根本にある問題のような気がする。自分の性格の悪さには随分前から気付いているので今更特にどうということもないけれど。

惺忪

 

揺れ動いて定まらない様子。目覚めたばかりでぼんやりした様子。

 

内にある澱みをどうにか文章にして区切りをつけたい、理解されたい、と思う反面、そんなのは不可能に近いだろうと諦めている自分がいる。

どれだけ言葉を尽くしてもぐちゃぐちゃに入り乱れた心情と書き起こされた文面が微塵のずれもなく一致することはない。し、その文章を読んだ人が私の情動を掴んでくれることもきっとない。言葉がこころを表そうと抽象に寄ってもがくほど、こころと言葉のギャップも、言葉と理解のギャップも広がる一方だ。

そも、心なんて内面にあって内面だけでは完結しないもので、外のすべての影響を受け続けて変わり続けるその一場面だけを切り取ることすら私の力量には重い。

どうせ意味はないけれど、意味がないことをやるくらいの余裕を持ちたいと常々思うので、暗い部屋のベッドの中で丸まりながらこれを書いている。

概念を切り貼りして、理屈をこねくり回して、ぶちぶち千切れたような言葉をどうにか文章の体裁にする作業の中で、自分の醜い内面に向き合うことが怖くてしょうがない。何より恐れているのは、自分の醜さを本気で憎みきれないことかもしれない。自分の性格の悪さを自覚しているのに、それを隠して振る舞って得られる外観とその億劫さを天秤にかけて、私はいつも他人を諦めている。性格を矯正したいという働きかけが、自分の中からはあまり起こらない。それに対する焦りもない。多分こんな人間やばいんだろうな。知りたくなかったです。ずっと知っていたけど。

 

なんの計画もなく書き始めたらどこの終着にも辿り着かなかった。いつもこんな感じだな。