μίμησις

 

 

 

献血をしよう、と思って、朝一番の予約を取って早起きして出かけたけれど、献血前の血液検査でひっかかってしまった。ヘモグロビンの値が0.2だけ足りなかったらしい。貧血というほどではないけれど、血液を他の人にあげるためには十分すぎるほど健康である必要がある。残念。これはノブレス・オブリージュの逆流かもしれない。与えるには、持っていなければ。

受付のときお礼品のハンドジェルを2つももらって、所属大学の累計献血数の数字も一つ増やして、温かい飲み物まで頂いてしまったのにそのまま帰る事になった。無念のなか献血ルームを出る私の背に降り注いだ「ありがとうございました」の声は、イヤホンのせいで聞こえないふりをしてしまった。

わたしの中には他人への悪意と、他人の悪意への信頼がありすぎる、と思う。性悪説を採用しているのもそうだし、道行く人は須らくわたしを悪くみているべきだと信じている。お弁当屋さんのアルバイトで少しいやなお客さんにあたる度に、店に来てくれるお客さんみんなへの期待が薄れていく。何かあったらまず他人の故意を疑ってしまうし、嫌いな人に嫌なことがあって傷ついているようでもさして何も思わない。

穴の中を覗いては、きっと見えないだけでなにか潜んでいるに違いない、私に害意を持つなにかがきっと今も笑っているに違いないと決めつけて、いもしない悪意の他者に肩をすくめて立ち去るような生き方をしてきた。

でも、人を喜ばせたい、という気持ちは確かにあるのだ。テーマパークやイベントのスタッフをしているときはお客さんに喜んでもらえるよう頑張るし、それで笑顔になっているのを見ると涙腺が緩むほど嬉しい。仲のいい友人には何でもしてあげたい。欲しがっているものがあったらなんでもない日でもプレゼントしたい。見たいと言っている映画のBlu-Rayを持っていたらすぐ貸してあげたい。なにかあったらいつでも話を聞きたい。「好きな人には尽くすタイプでしょ」と周りに揶揄されることも多い。

あるかどうかもわからない悪意を勝手に決めつけて見もしない他人を嫌うくせに、場合によってはそれが真逆に裏返って奉仕体質になる。

信じたいのかもしれない。テーマパークで遊ぶことを楽しみに来てくれたお客さんや、懐を開いた友人には、ひいては、人には、悪意があってもそれを上回る善意があることを。人に優しくしたい気持ちがあることを。

弁当屋さんのアルバイトでも、最初はもっと接客に対する期待が高かった気がする。敵意をぶつけてくるお客さんに会うたびにがっかりして、次は傷付かないように予防線を貼るようになってしまったのかもしれない。

思えば、そうやって他人に傷つけられてきた過去がわたしには沢山ある。わたしだけでは無いだろうけれど。対人関係において保身に走り続けた結果がわたしの性悪説なのだろうか。

でも、社会で生活を営む以上、わたし以外の人だって当然人との関わり合いで傷ついたことはあるはずで、それなのに他人への無償に近いような優しさを持てる人だって沢山いるので、結局わたしの根本にある問題のような気がする。自分の性格の悪さには随分前から気付いているので今更特にどうということもないけれど。