終わりにしたい、と思う理由は、死んで自我から解放されたい、私という意識ごと消えてなくなりたい、と思うからだけど、私の意識が消えても物理はこの世に存在し、遺体発見、葬儀、様々な後処理、私がいなくなったあと囁かれる憶測たち、などを考えると、自死することで私がきれいさっぱり終われるとは言えない。最悪だ。私の存在が無かったことになるような終わり方がないものだろうか。それすらどうでも良くなったとき、私は本当に死ぬのだろうが。

 


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古代の製本過程の動画に、「本はかつては高級品だった、本を10冊も持っている家は金持ちだった」というコメントが付されていた。

現代の技術で作る本と、この動画で作られる本はもう別のものと言ってもいいのかもしれない。たとえ工場で大量生産が可能になったって、この動画と同じ仕様、制作過程を経たものは今でも高級品だろう。廉価に作られる現代の文庫本とはまた違う価値がある。

でも、本としての本質や意義は変わらないのだろうか。膨大な内容を文章として記録し、保持し、人に伝える。

かつての本は記録して後世の人に残すことが目的だったのではないかと思う。技術革新を経て、現代はそれに加えて遍く広く普及させることも理由になった。大量生産される本の、どれか1冊でもきれいな状態で後世に残れば良い。これは、1冊の価値が下がったといえるだろうか?

同じ意義のものが、長い年月とその構成要素の入れ替わりを経ても同じものとよべるか、テセウスの船をなんとなく思い出す。

誰かに必要とされたい、唯一無二と言えるほど。でもそれに身体を預けるほどには人を信じることができない。
私に優しくしてくれる人がいても、内心ではきっと嘘だ、私を哀れんでいるか、あるいは馬鹿にしているんだ、としか思えない。優しくされたい、という感情が行き過ぎて、決して満たされない。わかっている。私なんかに優しくするなんて必ず裏があるに決まっている。私が、そうだから。

人と関わることが億劫で、恐ろしく、自分とは縁遠いものに思えてならない。他人との信頼関係を前提にした笑顔なんて生まれない。

多分、不安だから尽くすんだろうな。奉仕体質の原因はそこかもしれない。尽くしても嫌がられないってことは、私のこと嫌いじゃないってことじゃない?尽くすことによって、少しはわたしへの好感度が上がるかもしれないじゃない?そんな打算とは別に、喜ばせたい、という気持ちも同じくらいあるのに、もう自分のことすら信じられない。

なんでこうなってしまったんだろうと悲しく思う。これがあとどれくらい続くのか怯えてもいる。早く終わってくれると嬉しい

2023

エラ通信に触発されたので、2023年、私にどんな心境の変化があったか考えてみようと思う。

 

SNS。今まで、同好の人と仲良くする必要性をそんなに感じていなかった。自分の宝箱を人と分かち合ったり見せ合ったりする必要は無く、その余裕があるときに一人でこっそり覗き込んで、眩しくて耐えられずに蓋を閉じるようなことばかりしていた。特にここ数年は、ずっと。そのくせ好きという気持ちは色褪せず、記憶に焼き付いたあの日の煌めきを何度も頭の中で思い返してはため息をつく日々だった。好きすぎるものには触れたくない、ゼロの精神に近いものがある。

そんなだったのに、あることがきっかけで好きなものに関するSNSアカウントを作って人と交流するようになった。これは2023年のビッグニュース。人の意見や見方に触れることへの拒絶は未だあるけれど、少しは進歩したのでは……と思う。今までの私だったら絶対やらなかったようなことにも手を出してみた。成功したかは全然自信がないけれど……。

 

疲れている。何に?わからない。

ここ数日高潮のように落ち着かない日本の状況であるかもしれないし、1日2日と沢山歩いたからかもしれない。喉の奥が狭まるような倦怠感が抜けず、何をするでもなく座椅子に座っている。

倦怠感が抜けない、というのはずっと感じていたことだった。でもそれ以上の重たさを背負っているような気がするし、今まで通りかもしれないとと思う。昨日や一昨日、1週間前のことすら、正確に今と比較できない。目に見えず、数値化もできないからかな、それとも精神的な面が絡むからだろうか。どんな体制を取っても楽になれず、半開きの口から熱っぽいため息をついている。目を閉じて自分の鼓動と呼吸音に耳をそばだてて、これが他人のものたったら何か変わるのだろうか、と考える。わからない。

他人に認められたい、賞賛を浴びたい、でも同時に、それ以上に他人と関わりたくない。ここでいう他人、とは、私のことを理解してくれない人であり、私と同じ尺度を持たない人のことだ。

理解してくれない人、これも正確ではない。自分でない人間のことを、その心境まで含めて完全に理解することは不可能だとわかっている。多少関わりがあれば相手を理解しようとするのは無意識下でも行われる取り組みだと思う。私が他人に求めているものは、理解、ではないのだろう。私と同じように物事を感じて、私と同じようにそれを表に出す、ことができる人をずっと探している。そんな人は、いない。でも、私が重なりあえるのは私と全く同じ人だけだ。多少のズレがささくれて、いつか必ず致命的なヒビになる。経験則から知っている。私は、そのささくれを許容できない人間だ。

 

心のあり方を根本的に変えることなんて不可能なんだと思う。本心ではどう思っているのか、それを隠して堪える能力は鍛える余地があるだけ。だって、何か目の前の物事に対して直感的に浮かぶ感情はコントロールできるものではない。「こうあるべき」という表面を取り繕うことはできても、内面を矯正することって不可能だ。

最初から「良い人」に生まれついた人って得だなと思う。そんなの、顔に出さないようにしているけれど。

疲れた。明日は呼吸が楽になるだろうか。

暗渠

 

 

はやくいなくなりたい。
雄叫びを上げる自尊心と劣等感にずっと苦しめられている。この自我がなくなるならもうなんでもいいから早く消えたい、と思う。
自分より上にいそうな人たちの存在を全部まるごと許せない。違う。許せないのはそこに立てない自分だ。自分よりすごい人を直視できない、素直に賞賛できない、目を細めて顔を背けて逃げるだけだ。
YouTubeも、小説も、まともに享受できなくなったのはいつからだろうか。同い年で芽を出す人の存在を知って、年齢のせいにできない、自分は劣っている、と考え始めてしまったせいだろうか。こんな場所でのうのうとしている自分を見ていられない気がする。
すごい、の基準さえばらばらで、元々憧れていた場所でもないのに、他人がそこに立って光を浴びているのを見ると吐きそうになる。いつまでもこの暗い底でいっしょにいてくれ。
まとわりついてくる影のような劣等がずっと頭の中に語りかけてくる。あったかもしれない世界線のわたし、それに比べて現実はなんて悲惨なものか。水の中では光が当たるものだけがすべてにみえる。屈折したルサンチマンが、下に線を引いて蹴落とそうとしている。この世のものがぜんぶ嫌いだ。はやくここから出してほしい。

山月記を思い出す。今まで読んだ中で一番痛いところをえぐってくる語り口。新井素子さんの星を呼ぶ船シリーズも身にしみるけれど。
尊大な羞恥心と臆病な自尊心。
必死の努力もなく上に登りたがる怠惰な自我と劣等感。

はやく虎になってこの自我から開放されたい。

一時の安寧と閉塞感。この狭い狭い砦の中で、巨人の脅威から逃れられるのと引き換えに、新鮮な空気もありはしない。
こんな暮らしになって一体どれほど年月が経っただろうか。平和な幼少期の記憶がどうにも朧げで、そんな優しい思い出は全て追い詰められる暮らしの中で生まれた幻想のようにすら思えた。すべてはあの巨人達が海の向こうから現れて、砦に追いやられたあの日から。
自由を求めて堅牢な壁の外に戦士を送り出し、そして敗走の目を見続けてきた。亡くした仲間を弔う余裕もなく、死体を外に置き去りにして。
戦って、亡くして、怯えながら眠り、また戦って。
一体どれほどの仲間を失ってきたのか、記憶の中では千を越していたはずの人間は、今やもう目視で数えられる程にまでなった。槍を握って壁の向こうへ挑むたび、今度の争いで「減る」のが自分ではないことを切に願っている。
疲れている。ずっと。希望を持てない未来に。
食料に、衣類に、日用品に、娯楽に、その全てに困窮しながら瀬戸際を生きながらえることに。

全員がその諦念を心のうちに抱えながら、それでも立っていられたのは戦士を率いてきた人物のおかげだった。
戦闘と統率に秀で、指揮官とまで呼ばれた彼は、仲間を鼓舞することにも長けていたのだ。
彼が勝利を語ってくれれば大丈夫だと思えた。光の刺さないこの砦で、彼が語る昔の思い出話だけが気持ちを明るくした。
その彼は、一昨日、亡くなった。
いつものように、砦を壊そうと侵攻してくる巨人に抗って槍を振りかざし、その切っ先を喉元に突きつけようとしたところで。
相対した巨人がひらりとおもちゃのように投げてきたものに目を奪われた。その一瞬が、命取りだった。
せめてもの救いは、死に場所として大事な相棒の亡骸の隣を選べたことだろうか。腐敗した肉体が叩きつけられた衝撃で原型を留めていなくとも、身につけた揃いのスカーフで判別できただろう。

巨人は知恵をつけてきていた。
だだっ広い草原にぽつんとある小さな建造物の中には餌がいるらしい。餌をひとつだけ食べずに我慢していればおびき寄せられるらしい。餌は、自分たちが寝ている暗いうちは川にいるらしい。

昨日の深夜、闇を忍んで水を汲みに向かった補給係は帰ってこなかった。次の展開は容易に予想できる。

使う者が随分減った刀掛けの、一昨日新たに空いた大きな空白が目に痛い。欠けた一人分よりずっと質量を増した絶望が入り込んでいた。

日が暮れる。腹をすかせた大きな生き物の吐息が肌に当たるようだった。
ふと見やると、一言も発さない仲間がどこにともなく焦点を彷徨わせている。窪んだ眼窩の奥に、誰も住んでいない部屋のような闇が広がっていた。
きっと自分も同じだ。窮鼠だって前歯を失えば猫を噛もうだなんて思わない、思えない。

「行こうか」
ささやくような声だった。すべてわかちあってきた相棒がこちらを見ている。
「もう疲れたよね、がんばったもんね」
長く息を吐くことで肯いた。同じ暗闇に、私達はいる。
刀掛けから二振り槍を手にとって片方を渡した。隣を見ずとも考えていることは自明だ。

砦の出口の閂を抜く。外の空気と共に、餓えた巨人の目がぎょろりとこちらを睨んだ。
飛び出していった相棒に続いてがむしゃらに武器を振う。打ち付けた感触で巨人の位置をやっと正確に把握できるような闇の中。
背中を預け続けてきた相棒に、今日は隣を許した。
願わくば、花の下にて。

 

 

 

 

 

怖い夢見たから文字起こししておく